トルコで目当ての気球を見られなくてがっかりしたものの、後に出会った旅人から見せてもらった写真を自分の経験として脳内メモリをすり替える事に成功し、真実としても人には「気球を見に行った」と言えるので、トルコ滞在は十分に価値のあるものになった。イスタンブール空港からアテネを経由してエジプトのカイロに向かう僕はエーゲ航空のエアバスに搭乗し、自分の座席を探していた。「窓際の席でお願いします」とチェックイン時に頼み、「分かりました」と言って空港職員が用意してくれたチケットはゴリゴリの通路側だった。僕は飛行機が着陸した瞬間、今まで大人しくしていたのにCAさんによるシートベルトのランプが消えるまで座っていろという旨のアナウンスに一切耳を貸さず、飛行機が滑走路から搭乗口へ移動している間に少しの躊躇いを持たずに立ち上がって荷物を棚から取り出して我先にと通路で列を作る人間が大嫌いなので、巻き込まれないように可能な時は窓際の席を選ぶようにしている。この人たちは絶対にカップラーメンの後入れかやくをお湯を注ぐ前に入れてしまうんだろな。コンビニで支払い金額が会計とぴったりだったからって店員さんがレシートを用意する前に無言で立ち去るんだろうな。そんなことを考えながらトイレに行く時だけ便利な席で数時間のフライトに身を預けることを決意する。
これから行くのはエジプト。人生で3度目のアフリカ上陸であり、この大陸に僕は他の国とは違った特別な感情を抱いている。初めてのアフリカはタンザニアだったのだが「人生こんなもんでいいんだ」と思わせるほど、出会う人々は陽気でいい意味で怠惰だった。この後から僕は見えない衣を一枚脱いだような心の身軽さを持てるようになった。その翌年にはケニアへ行った。濁りのない子どもたちの瞳に心を奪われ、いわゆる貧困にあっても笑顔で僕に声をかけるおっちゃんたちと触れ合い、心の豊かさや幸せってなんだろうと考える機会を与えてくれた。これらは旅をすることで普段は敏感な他人からの目線を気にする感覚が失われた自分による偏った主観的な感想でしかないのだが、不思議と東南アジアやヨーロッパに行った時にはそんなことは考えなかった。社会人を経て今の自分が行くアフリカ。何に出会い、何を見て、何を感じるのか。ピラミッドとスフィンクスしか知らないエジプトに期待を膨らませていた。
座席に着いてからしばらく経つが、飛行機はなかなか動き出さない。意識をエアバスA3991座席番号29Cに戻し、視線を前に移すとノースリーブのCAさんが乗客の持ち込み荷物を棚に入れるのに苦労しているのが見えた。一人の乗客が空港内で大量に買い物をしたようで、複数のパンパンに詰まった大きなビニール袋の入れ場所を探しては、半ば強引に棚へ押し入れる事に奮闘していた。僕は脇目を逸らさずに、そのCAさんが全ての荷物を棚へしまうのを見届けた。(ノースリーブだけにね。なんつって〜。)
CAさんの努力も虚しく出発こそ遅れたものの、飛行機は定刻通りエジプトの首都カイロに到着した。タクシーアプリUberに乗って予約していた宿へ向かうが、空港と都市を結ぶ幹線道路の綺麗さに目を見張った。凸凹などなく平に敷かれたアスファルトの上を車は走り、どこを見ても道路には10メートル四方はありそうな巨大な看板広告が目に映る。数メートルごとにお行儀よく並んだ看板たちは皆同じ顔をしており、覚える気がなくてもその会社を覚えてしまうくらい見事に仕組まれていた。今はもう忘れたが。15分ほど走ると看板の数は減り、なんとかかんとかという会社によって遮られた街の景観がはっきりと見られるようになった。見られるようになったが、目に映るのは朽ちた建物ばかり。塗装が剥がれているのか元々されていないのか分からないが、壁はコンクリート剥き出しで曲がったパイプや鉄筋がそのまま放置してあった。街とはいったものの、すでに機能していることはないだろう。綺麗に舗装された幹線道路からは想像出来ないくらいギャップのある荒廃した街並みは見ていて決して気持ちがいいものではなかったし、道中なんでこんなところにあるの?という場所に肩を寄せ合ったマクドナルドとケンタッキーは、あぐらをかきながらその様子を鼻で笑っているような気がしてならなかった。この道路を作るために建物を崩して街がなくなり、処理しきれなかった残骸がそのまま残っているのだろう。「お前らが勝手に後から来ただけだからな」と朽ちた建物たちが未だに何かを諦めずに叫んでいるようにも見えた。これがカイロの第一印象だ。
翌朝、コーヒーを飲みに近くのカフェに行った。「砂糖は?」とだけ聞かれたので「いらない」と伝えて四人席に一人で腰掛けた。カイロのカフェはシーシャを吸いにくる客が多く、店内は煙で充満して2メートル先のマスターが薄目をした時のように少しぼやけていた。間も無くして運ばれたエスプレッソほどではないが小さめのカップからは、今までに嗅いだことのないコーヒーとは別の甘い香りがした。店員に聞くより先にググってみると香りの正体はカルダモンというスパイスで、このスパイスの入ったアラビアコーヒーがこっちではよく飲まれているらしい。香りに驚きつつも上澄みに浮いたコーヒーの粉をふうっと吐息で端に寄せてから一口含んでみると、初めにスパイスが口から鼻を穏やかに通っていく。次第に日本列島を横断する春一番のような温かみを帯びた甘い香りはゆっくりとコーヒーに主導権を譲っていく。最後に液体が喉を通った後の口は紛れもなく濃いコーヒーを飲んだ時のもので、この感覚を僕は知っている。しかし、飲み込んだ直後に鼻から抜ける一発目の息は柔らかなカルダモンをまとい、たった一口飲んだだけで僕はアッサラーマアレイクムとなった。カルダモンによるものなのかこの時の記憶は曖昧なのだが、コーヒーを口に運ぶたびに「うまっ、うまっ」と言いながら一人でにんまりしている日本人を他の客は見ないふりをしてくれていたことだけは覚えている。カフェで一息つくどころか興奮してしまい、気がついた頃には飲み終えてしまった。”一心不乱”は初めてアラビアコーヒーを飲んだ時に使う言葉に違いない。
冷静さを取り戻す為にもう一杯同じものを注文して2杯目のコーヒーを飲むと、息を吐くように「疲れたなあ」と言葉が漏れた。それもそのはず、昨日は計7時間の飛行機移動に加え、話が逸れてしまうので割愛したが空港からUberに乗るのに配車依頼をしたのにインチキドライバーばかりで4回もキャンセルをした末にようやく乗ることが出来たのだから。各インチキドライバーにきちんと文句を言ったり、次の車を待っているときに執拗に声を掛けてくるインチキタクシーをいなすことに相当なエネルギーを使ってしまった。意識的に息を深く吹くことで残った疲労感も体内から出ていかないかなと淡い期待をしつつ、コーヒーに手を伸ばす。目を閉じて嗅覚を研ぎ澄ますと、香りに釣られてふわっと脳裏に浮かぶものがあった。道路と街のアンバランスさ?今改めて思うアフリカへの思い??いや、違う。スライドショーのように静止画が一枚、また一枚と登場するそれはどれも同じ場所で見た同じ物。連続して頭の中で映し出されるのは全て通路側の席で見たあの光景、あの瞬間。
「CAさんの脇、綺麗だったなあ。。。」時は2023年2月。28歳と7か月にして脇フェチへの目覚めである。
この大陸はいつも新しい気付きを僕にもたらせてくれる。アフリカ滞在を、決して自分探しの旅だなんてありきたりな言葉では片付けてはいけない。ここで得られるものは自分の思考の核となるものだ。飲み会などで不意に振られる「何フェチなの?」という質問に対して、今まではありきたりに「匂いですかねえ」なんて答えていたが今はもう違う。自分の好みをはっきりと言うことができ、根拠とそれにまつわるエピソードを添えることができるのである。一つ自分が自信を持って言えることが増えた。
脇とかけまして、途上国に求める未来と解く。その心はどちらも、上(飢え)がありません。
そろそろやめておきますね。
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