子どもの頃は自分が着地出来るか出来ないかギリギリの高さから飛び降りたり、目の前に公園があるのににわざわざ細い路地で野球をやったりしていた。そこには着地に失敗した時に怪我をするのではないかと子どもながらに想像出来る危険性や、打球が左右に飛んで人の家に入ってしまったらインターフォンを押して「ボールが入っちゃったんですけどお」と訪問しなければいけないというリスクがあり、これやったら危ないなとか、いけないなみたいな楽しさとスリルを天秤に掛けながらそのちょうど良いところを狙って遊ぶのが好きだった。しかしその天秤はあくまで自分の価値観や子ども特有の「あいつが出来たから俺にも出来そうな気がする」によって錘の重さが決められるので正確ではなく、普通に怪我をしたり近所のおっさんに怒られる時もあった。それでもあのいい具合に攻めてスリルを味わえた時の心臓がヒュンとする感覚が癖になり、場所を変えて同じことをやったりしていた。
大人になってそんな遊びをしているだろうかーーー。
と書き出して締めに子ども心を取り戻してみようなんてことを言ってまとめてみようとしたが、全然やっていた。まだ僕は余裕で子どもだった。
保育士の頃は最近の子どもの様子やその月のお知らせなどを書いて保護者に配るお便りがあり、毎月当たり障りのない文章を書くことに飽きてきた僕は文章内にその時によく聴いていた曲の歌詞をねじ込んでみたり、友達がCR北斗の拳で大勝ちしたという話を聞いてからパチンコも北斗の拳も知らないのに「時は20xx年〜」とアニメのオープニングをもじった文を書き、その度に上司による校閲でOKが出るかボツをくらうかの境界線を見極め、ぎりぎりを狙ってはそのスリルを楽しんでいた。クラスのお便りが僕のエッセイ調になったのもちょうどその時で、園長が首を縦に振ると自分で書いておきながら「よくOKしたなあ」と思っていた。12ヶ月かけてやったからか少しずつ校閲の基準みたいなものがが狂ってきたようで、最後の方は文章内で園長を編集長と呼んだりしていじっていたのに書き直しを命じられる事はなかった。もしかしたらそもそも激甘なチェックだったのかもしれないが、いずれにせよ僕は勝手にスリルを味わって勝手に楽しんでいた。
もちろんこの旅でもその遊びはしていて、エチオピアではこの人信用して良いのかなあと疑いつつも面白そうだからと道で声を掛けられた知らない人について行ってその人の家に上がり込んだり、知らない人の家で出された料理を土の匂いがするけどこれ食べて大丈夫かなあと心の中で言いながらも口に含んだりした。結果的に向こうのペースにはめられて3キロ歩かされたうえに知らない人の親戚とビデオ通話をしてお金をねだられたりお腹を壊したりするのだが、その時のスリルを味わえればそれで良いのだ。ただ、知らない人について行っていいことはほとんど無い。
コメント