ヨーロッパから帰国して1ヶ月ほど経った。目をキラキラに輝かせて人に熱い想いで話すほどの感動はなく、まあ人並みに旅を楽しんだと思う。新しい人生観や価値観など得るわけもなく、日本を出たことのない友達に「海外行ってみ?人生変わるから。」とマウントを取れるほどの時間は過ごしていない。僕にとってヨーロッパに行っていた期間が日常と少し離れていただけで、同じくらい価値のある時間なら地元でもどこでも十分得ることは出来るだろう。日本に帰ってきてもアザラシは可愛いし、たらこは美味しくない。1日履いた靴下はやっぱり臭い。
ただ、この期間で僕が訪れた場所や人との経験を経て、自分が人生を楽に生きる為のヒントを得たような気がする。例えば、家族を大切にすることや自分の気持ちに従って生きること。後者の場合、僕は今まで生きることに少しだけ考えすぎなところがあったのかもしれない。僕は人から”「かんって何も考えてなさそうでちゃんと考えているよな」と思われているが、実は僕自身何も考えていないという状況がある”のを作るのがかっこいいと思っていた。そう他人に思ってもらえるよう腐心しつつも、心の中ではそんな事を思っている時点で既にあれこれ考えているのでは?という、もはや哲学と言ってもいいような迷走に陥っていた。
しかし、宿で出会った周りの反応関係なしに自分の話をしまくるおっさんや、ツールドフランスを観戦に来たはずなのに泥酔して選手が目の前を通る頃には爆睡していたお兄ちゃんたちに出会い、僕は脳内で彼らを「こいつらは俺より物事を考えていないな」と脳内で馬鹿にしつつも、その後先を考えずに奔放に振る舞う様を少しだけ羨む自分がいた。
僕には自分を客観的に見過ぎているという節があり、それが自分の感情や行動を抑え込んでいるように感じていた。最後に自分が感情をむき出しにして笑ったり泣いたり怒ったりしたのがいつだか覚えておらず、何をするにも僕の右肩には僕以外誰にも見えない、僕と同じ顔をした小さな悪魔がことあるごとに耳元で冷める一言を言う。バーに行った時は、音楽に合わせて体を揺らす友だちに倣って僕も踊ろうとすると「日本人のお前には似合わないからやめとけよ。恥ずかしい。」とか、ひどい時はカフェに行った時に「お前はサイドメニューを頼めるステージにいない。」とか言ってくる。人間がカフェでサンドイッチを頼めるステージがどの位置なのかは不明だが、いつの間にかこの悪魔は僕の一部と化していた。
自分を客観的に見ることが悪い事だとは思わないが、やりすぎも良くない。ときに右肩のこいつは僕の自分らしさを貪る。せっかく僕と同じイケてる顔をしているので、うまく付き合っていこうと思う。あの時、あのおっさんにもお兄ちゃんにも悪魔は取り憑いていなかっただろう。自分が、「フォーーー!!!!」となったらそれはもう、「フォーーー!!!!」なのだからそれでいい。
「ありのー♪ままのー♪」と宣う、白髪で長髪が似合う彼女の言葉の意味を改めて理解出来たことが、円安によりカードの支払いが思いがけない金額になって落ち込んだ僕に与えてくれる数少ない財産であろう。
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